「全く……兄さんってば相変わらず心配性なんだから!」
玄関を閉めるなりエリスは鼻息荒く叫んだ。
エリスが住んでいるのは大通りに面した2階建ての集合住宅の一室。集合住宅といっても、一階はカフェテリアで二階にも3室しかない小さなものだが、
エリスは物心ついた時からずっとここで暮らしている。
「相変わらずおめぇの所は賑やかだな、嬢ちゃん」
建物の脇にある階段を下りた先で声をかけられ、エリスは声の主を探した。
カフェテリアの前に広がるテラスの一席に見知った男の姿を見つけ、エリスの表情がぱぁっと晴れる。
「ドルネさん!」
ドルネと呼ばれた中年の男は、白い椅子に腰かけて縦に折り畳んだ新聞を旗の様にひらひら振った。
どちらかといえば痩せた体型に、無精ひげ。よれよれのシャツ姿からは威厳というより親しみやすさを感じさせる。
「候補生……じゃなくて今日から準騎士だっけか?」
「えっ、な、なんでそれを……」
「朝からあんなに騒ぎあってりゃな……。このアパートの壁そんなに厚くないし」
「うっ………」
ドルネのからかう様な言葉に、エリスは表情を歪ませて気まずそうに視線を逸らした。
ドルネはエリス達の隣の部屋で暮らしている。
彼の言う通りここの壁はそれほど厚いわけではないので、確かに喧嘩は筒抜けだったろう。
もしかしたら彼が今ここにいるのも喧嘩の声に耐えきれず、ということかもしれない。
迷惑をかけてしまったと落ち込むエリスを尻目に、ドルネはたばこに火をつけた。それを咥えながら、ニヤニヤと意地の悪い笑みを見せる。
「準とはいえ騎士様と王立魔法副師団長様が、朝から大声で口げんかなんてなぁ〜」
「う……うぅ……」
エリスは更に身体を小さくする。
ドルネが言った王立魔法副師団長とはローゼルの事だ。騎士団と双対を成すソルディア王国直属の組織で、魔法の研究・開発・魔法使いの育成にあたる。
その中でも副師団長となれば上から3番目に位置するかなりのエリートな訳で。
「エリート副師団長様にも妹は御せない、か。ふふん、いい笑いネタになりそうだ」
「うわー!ドルネさん悪かったですごめんなさい!許して!」
耐えきれなくなったエリスは思わず叫んで、顔の前で手を合わせた。
詳しくは聞いていないがドルネは情報屋という噂だ。そんな情報を好んで買う人などいないだろうが、それでもラインナップされるのは避けたい。
ローゼルの威厳と、ようやく騎士になれた自分のメンツが音を立てて崩壊しそうな予感にエリスは身を震わせた。
「も〜ドルネさん、女の子をいじめるのは感心しませんよ〜?」
おっとりと間延びする声と共に現れたのは、妙齢のたおやかな女性。片手にサンドイッチとホットコーヒーの載ったトレイを、左手は腰に当てられている。
ドルネはまずい人に見つかったとばかりに苦い顔をして眉を下げた。
「まいったな……デュノーさん。別にいじめてなんかいませんって〜」
「いじめてるじゃないですかぁ。エリスちゃん泣きそうですよ〜。ねぇ?」
デュノーと呼ばれた女性はそう言うと、小さい子をあやす様にエリスの頭を撫でる。しかしエリスは何とも複雑な表情を浮かべ、伸ばされた手をするりと避けた。
しかし、一度避けられた程度では諦めないのがデュノーという女性。逃げるエリスをパタパタと追いかける。
が、もちろんエリスも意地があるので、結局その場をぐるぐる回る状態が続いてしまう。
「エリスちゃ〜ん!逃げちゃいやよ〜」
「デュノーさん!私を何歳だと思ってるんですか!」
執拗に撫でようと追ってくるデュノーにしびれを切らした、というよりは羞恥心が限界に達したエリスはとうとう大声で叫んだ。
しかしデュノーは残念そうに口元に手を当てるだけだった。
「えぇ〜…だって、エリスちゃん昔はよく苛められて泣いてたじゃない〜」
「な、泣きませんよ!もう子供じゃないんですから!」
言い返して、エリスは怒ってる様な照れくさい様な複雑な表情を浮かべた。
両親を幼い時に亡くしたエリスとローゼルは、この集合住宅の大家でもあるデュノーに何度もお世話になった。
だから付き合いも長いし、デュノーにからかう意図がなく心底心配しての行動だというのは分かっている。
だから余計に達が悪いんだ、とエリスは口の中だけで呟いた。
「ふふ、相変わらず君のところは賑やかだねぇ」
もう一度デュノーに抗議しようと姿勢を正したエリスの背後からかけられたのは、笑いをこらえるような少年の声。
振り返ると、エリスと同じ騎士団の上着にズボンといった格好のアルファが立っていた。
アルファの姿を見たドルネは意外そうに声をあげる。
「んぁ?お前も今日昇格なのか」
「そうですよ。だってエリスと同じ班だしね〜」
「班?なんか関係あんのか」
怪訝そうに眉を寄せたドルネに、エリスが説明を引き継いだ。
「騎士の叙任式は大規模で一斉にやりますけど、候補生から準騎士は班ごとに叙任式やるんですよ」
「会場も団長室だし、やることもバッジ渡すくらいらしいねぇ」
「はーん…結構シケてんだな」
「ねぇ〜」
妙に意気投合してドルネと頷きあうアルファの頭を軽く小突き、「そもそもさ…」とエリスは腕を組んだ。
「アルファ、何でここにいるの?」
「え? 城に向かって歩いてたら君の賑やかな声が聞こえたから」
アルファはクスクスと笑いながら、周囲を見回すようジェスチャーした。エリスがぎこちない動きで辺りを見回すと、
カフェの客が微笑ましそうな目でこっちを眺めている。
自分を取り巻く状況に気付き、エリスは思わず頬を引きつらせた。それを横目で見ながら、アルファは更に追い打ちをかける。
「ちなみにね、叙任式の対象者は半刻(一時間)前集合だって知ってた?」
「嘘っ?!」
「ほんとー」
アルファはのんびりと胸ポケットにしまった懐中時計を取り出して、エリスに向かって見せた。
針が示す時刻と集合時間までの残り時間を計算した瞬間、真っ赤だったエリスの顔がスッと冷める。
「ぼーっとしてる場合じゃ無いじゃん!」
「だからそう言ってるじゃん」
「こののんびり屋!急ぐよ!」
エリスはそう叫ぶなり大通りを城に向けて駆けだし、アルファもゆっくりとではあるが後を追いかけて走りだす。
嵐が過ぎ去った様に静けさが戻り、ドルネはフーッと煙草の煙を吐いた。
「……ったく。せわしねぇなぁ、あいつら」
「いいじゃないですか〜仲が良くて〜」
そうかねぇ、と興味なさそうに新聞を広げるドルネに苦笑しつつ、デュノーは通りに目を向けた。
「いってらっしゃい〜。遅くなる前に帰ってきてね〜」
遠くなっていく二人の背中に向かって、デュノーはにこやかな笑顔で手を振った。