リルーシャ・ダノアは逃げていた。



「あぁぁぁぁぁぁぁ!もおぉぉぉぉ!」



手入れが面倒なのか首辺りで無造作に切られたワインレッドの髪と群青の瞳。まだ幼さを残している顔立ちからして、歳は17くらいだろう。

草木が乱雑に生え、デコボコに隆起した山の坂道を駆け降りるその速度はかなりのものだ。

背後に追跡者の気配をヒシヒシと感じながら、リルはひたすら走っていた。



「おっ?!」



ガッ!と足が地面の岩に引っかかり、リルは裏返った声を上げた。下り坂を駆けおりたエネルギーはかなりのもので、もう本人でも御しきれない。

グンッ、と身体が前に放り出されたかと思うと、勢いよく一回転して背中から地面に激突した。



「ぐぇっ!」



女子があげるべきではない声が口からもれる。

背中を襲う激しい痛みに顔を歪ませたリルは、ハッと顔を上げるとキョロキョロとせわしなく辺りを見回した。

静かな森。人の姿は見当たらない。



「………もしかして、逃げ切った…?」



希望的観測を口に出してみるが、その数秒後、それは見事に打ち砕かれた。



「こら―――――――!リル――――――!!」



山どころか世界に轟けと言わんばかりの大音量。リルは飛び上がらんばかりに驚いて耳をふさぐ。

が、その時腕が茂みにあたりガサッという草音が立った。追跡者がその音を聞き逃すはずが無い。



「そこだな?!動くなよ!絶対だからな?!」



ズンズン草をかき分けて近づいてくる気配に、リルは逃走しようと浮かしかけた腰を大人しく降ろした。

気配はもうすぐそこまで近づいている。今さら逃げた所で知れていると判断したからだ。

そして、ガサッと茂みをかき分けて目の前に現れた少年に向かって、



「ねぇ…ヒューイって暇?」



と、酷く疲れた様な声を投げかけた。



「な………」



少年は呆れて物も言えないと言いたげな顔になった後、ワナワナと身体を震わせてさっきの声を上回る大声で叫んだ。



「あ、の、ねぇ〜……君が逃げなければ僕も追わずにすむって知ってる?!」



金髪碧眼の少年、ヒューイ・ベナンドは腰に手を当て、いかにも怒ってますというように顔をしかめた。

二人がいるのはシュトラド帝国との境界に広がるワーデイン王国領の森。

あまり人の手がはいってせいか、朝だというのに鬱蒼と茂る木々のせいで薄暗い。

二人以外の人の気配が全くないその森の中で、リルは首から下げられた麻紐に触れた。かなり古いもので、その先は服の下にしまわれている。

指先に絡めて遊びながら、リルは真面目な顔で言った。



「ヒューイが追わなければ私は逃げなくて済むんだよね」

「君が礼拝サボるからだろ?」

「サボってるんじゃなくて、行く気がないの」



反省する気がまるで見られないリルに「どっちも同じ!!」と一喝したヒューイはリルの腕を掴んで引っ張った。

だが、リルに動く気がないので、するりと手が離れてしまう。再び掴むが、また離れる。

何度かそれを繰り返し、しびれを切らしたヒューイが、



「ほら、リル!礼拝終わらないうちに行くよ!」

「…いや、もう終わりじゃないかな」



気のない台詞を裏付けるように、カラーンカラーンと森の向こうから鐘の音が聞こえてきた。

森の側にあるウェリスという町で礼拝が終わった事を知らせる鐘の音。

それを聞いたリルは自由な方の腕でガッツポーズをし、ヒューイはがっかりと肩を落とす。



「完璧…。さすが私…!」

「はぁぁ……また礼拝行けなかった……」

「っていうか、私を追いかけなければ余裕で行けるじゃない」



ヒューイの父親は町の神父兼町長。礼拝に行かなければならないのはむしろ彼の方だ。

だというのに、彼は毎朝リルを教会に連れて行こうと追いかけまわしてくる。リルがこの町に来てから3年が経とうとしているが、毎日だ。

この根性は称賛に値するが、こっちは行きたくないのだから、礼拝に行きたいなら追ってこなければいい。

完璧な正論だとリルは思うのだが、彼はどうしても納得いかないらしい。



「君も行かなきゃ駄目なんだってば!」

「えー…どうしてー?」

「ど、どうしてって……」

「だって、礼拝は強制じゃないでしょ?」

「そっ……それは…」



いたって普通の問いかけのはずなのに、何故かヒューイは顔を真っ赤にした。

威勢の良かった声も尻すぼみに消えて、目に見えて挙動不審な態度を取り始める。

表情も恥ずかしそうだったり、真顔になったり、にやけたりとクルクル変わって忙しそうだ。



「だ、だってさぁ……礼拝行ってれば父さんにも……。それに、一緒に入れるし………」



ごにょごにょと言って、様子をうかがう様にリルの顔を見る。しかし当の本人は涼しい顔――明らかに色々な事が伝わっていない顔だ。

ひっそりと落ち込むヒューイの様子にまるで気付かないリルは、その場からパッと立ちあがる。



「あー…うん。とりあえず、私帰るね」

「え?!」



ヒューイがガバッと顔を上げて、急に焦る様な表情になった。

服についた土埃を払っていたリルはヒューイの態度の変化が理解できず、眉を寄せる。



「え?!…て言われても……いつまでもここに居ても仕方ないじゃない」

「そりゃそうだけどさ………」

「ここらへんは安全だし、ヒューイも一人で帰れるでしょ」

「町はこっち…」



リルは進もうとしている道と真逆の方向を示すヒューイの指と顔を見て、小さく肩を竦めた。



「“私の”家はあっち。知ってるでしょー。じゃあね」

「ま、待って!」



ヒラヒラと軽く手を振って歩き去ろうとすると、慌てた声で呼び止められた。

いつもなら教会の鐘が鳴った時点で諦めて帰るのに、今日は随分と食い下がってくる。

何かあったかなぁ、とリルは表情にださずに心の中だけで首を傾げた。

怪訝そうな顔で振り返れば、全身の血が顔に集中してるんじゃないかと思うくらいに真っ赤な顔のヒューイが口を開く所だった。



「り、リルは、今年の収穫祭、来る?」

「行かないけど」

「即答?!」

「今年も何も…一度も行った事無いじゃない、私」



何を今更、とリルは小声で言った。

収穫祭は毎年秋に行われる盛大なお祭りだ。大事な行事だし町の人間なら誰でも参加するが、リルは「とある理由」から毎年参加していない。

何かとリルに関わってくる彼がそれを知らないはずないのだが。



「あ……うん、それはそうだけど……」

「で、収穫祭がどうしたの?」

「いや…その…僕、今年成人なんだ」

「んー?あぁ、そっか…」



リルは納得の声をあげた。

ヒューイはリルより1つ上。確かに今年は成人として認められる18歳で間違いない。



「いやー、ヒューイも大人の仲間入りかぁ…感慨深いねぇ……」

「感慨深いねぇ…、じゃなくて…。あれ、もしかして…リル忘れた?」



うんうん、と腕を組んで頷いていたリルはそこでピタリと動きを止めた。



「忘れたって…何を?」

「だ、だから、前話したでしょ?!成人した男子は、収穫祭で……!」



ヒューイの台詞はそこで止まったが、思い出す為のヒントは充分あった。蘇ってきた記憶に、リルは「あー……」と間の抜けた声をだす。



「えっと……成人男子は収穫祭に花嫁を選ぶんだっけ…?」

「そ、そう!」



ヒューイはブンブンと頭を上下させて、何かを期待するような目でリルを見る。

その視線の意味は分からなかったが、リルは単純に思った事を述べた。



「そろそろ決めないとやばいんじゃない?」



リルとしてはただの親切心から出た台詞なのだが、ヒューイは何故かガクッと落胆した表情になった。

「そんな言葉が聞きたいんじゃない」とでも言いたげな態度である。正しい事言ったはずなのになぁ…とリルは口の中だけでぼやく。



「うん……まぁそうなんだけどさ」

「ここで遊んでる場合じゃないと思うんだけど」

「遊んでるんじゃないってば!」



突然声を荒げられ、リルはビクッと肩を震わせる。何で怒鳴られたかもわからない。

唖然とするリルに、ヒューイはもどかしそうな口調で言いつのった。



「リルは、さ。いつまで“あんなところ”で暮らすつもり?」



“あんなところ”という単語に、リルの眉が僅かに上がった。

何も言わなかったが、ほんの少しだけ気配が鋭敏に、瞳の光が冷ややかなものに変化する。

その気配の変化に気づかないヒューイは色んな感情を抑えるような表情で言葉を続ける。



「あそこに住まなくたって、君は町に……!」

「あ、ごめん、ヒューイ。私帰るわ」

「そう、帰るって……………えぇ?!」



唐突なリルの言葉にヒューイは大声で叫んだ。リルはマイペースな口調で、



「洗濯物、放置したままだった。傷む前に干したいしー、帰るねー」



じゃ、と片手を軽く上げ、まだ納得しきっていないヒューイをその場に残して森の奥へ歩き始める。



「え…………。り、リル〜〜〜〜?!」



ようやく事情を飲みこんだヒューイの絶叫が聞こえてきたのは、それからしばらく後だった。