兆しは一体いつからあったのだろう。
少なくとも、その時のジュードは当たり前の日常が綻び始めている事に気付かなかった。
「ガイアス…今日部屋にいるかなぁ」
研究資料を出しに来たついでに寄っていこうと、ジュードはガイアスの私室までの通路を急いでいた。
ようやく目的地にたどり着き、もうすぐ会えるのだという期待に胸を高鳴らせて扉を叩く。
「…あれ?」
いつもなら扉を叩いてすぐに「入れ」と返事があるのだが、今回は返事が返って来ない。
謁見の間に居なかったし、今日は公務を終えたと聞いたから確実にここにいるはずなのだが……。
「ガイアス、いる……?……っ!」
そろりと扉を開けて中に入ったジュードは、思わず息を飲む。
ガイアスは確かに室内にいた。しかし、壁に寄り掛かってぐったりと座り込んでいる。
「ガイアス?!ねぇ、どうしたの?!」
ジュードは慌てて駆け寄ってガイアスの状態を見た。外傷はない所をみると、誰かに襲われたという訳ではないらしい。
顔色を見ると、僅かに青い気がした。わずかにやつれたようにも見える。
重度の疲労とストレスによる衰弱。ジュードの医学知識はその結論を叩きだした。
(それにしても酷い……)
最近色々立て込んでいて忙しいというようなことはローエンから聞いていた。それでなくてもガイアスは一人で何でも抱え込んでしまう。
このままでは危険だ。
「ジュード、か」
「ガイアス?!ねぇ、最近ちゃんと休んだ?!」
薄目を開けたガイアスが、赤色の瞳でジュードを映した。いつもなら強い意志が宿っているその瞳も、何だが深い闇に堕ちた様な色を宿している。
壁に手をかけてガイアスは起き上がって「何を言ってる」と支えようとしたジュードの手を拒む。
「俺は王だ。王は強くなければならない。まだ何も終わっていないというのに、休む必要などない」
それはジュード自身何度も聞いてきた、ガイアスの口癖。だが、今の言葉は呪詛のようにおぞましい響きを感じた。
本当に危険だ。何とかしなくては。
「ねぇ、ガイアス、お願いだから少しは休んで! 貴方は王でも、ひと―――っ」
言い募ろうとした瞬間ガイアスに肩を押され、ジュードはそのまま背後のベッドに倒れこむ。
ガイアスが上にのしかかり、ギッとベッドが軋む音がした。
「今日はどうした、ジュード」
「今そんなこと言ってな…」
「寂しくなったのか」
ガイアスはそう言うと、ジュードの胸元を僅かに緩めて首筋に唇を這わせる。いつもなら熱を帯びるはずのキス。
なのに、ゾクリッと悪寒がはしった。
「…っ離して!」
ジュードは思わずそう叫び、ガイアスの胸を押して突き放した。
嫌悪ではない、恐怖から。
「…ねぇ、ガイアス、どうしたの、ほんとに、どうしたの……?」
声が震える。目頭が熱くなり、みるみるうちにジュードの目から涙があふれてきた。何故泣いているのかもわからない。
怖い。目の前のガイアスが今は怖くて仕方なかった。
「…泣いて、いるのか?ジュード」
ガイアスはそっと指でジュードの頬に触れる。何も変わらない、優しい手つき。なのに、
(なにか、ちがう)
「…苦しいのか?ジュード」
いたわる様な、心配する様な声。
(ちがう)
「……ジュード、何かあるのなら言うといい」
(ちがう)
得体のしれないものが内側からジクジクと侵食してくるような感覚。ジュードの本能的な不安が警鐘を鳴らす。
「大丈夫だ、俺が救ってやる………」
その言葉が、決定打だった。困惑から解き放たれ、全身から力が抜けてしまう。
絶望とも、呆然ともとれるよくわからない感情に支配されて目の前が見えなくなる。
目の前の事実を受け入れたくなかった。
(あぁ、この人は…)
この人は、壊れてしまっている。
己に科した責務に、国民の期待に、公務に。自分を縛る全てに囚われ、壊れてしまっている。
「ガイ、アス……」
言いたい事は山の様にあるのに、それだけしか言えなかった。すがりつくように腕を掴めば、ジュードの背に腕が回される。
「…抱きしめて欲しかったのか」
(ちがう、ちがうよ、ガイアス)
僕が望んでるのはそんなお人形みたいな愛情じゃない。
反射みたいに帰ってくる虚ろなものじゃないよ。
ジュードがガイアスの目を覚まさせるように耳に咬みついた。グッと歯に力を込めると、僅かに皮膚が切れる感触がする。
「…痛いぞ、何か、悲しい事でもあったのか……」
その囁きに、ジュードはガイアスの腕を掴む手に力を込めた。涙が止まらない。
どうしたら元に戻ってくれるのだろう。いつから、こうなってしまったのだろう。
(悲しんでるのは貴方。苦しんでるのも貴方。僕が救いたいのは、ガイアス、貴方だ)
ジュードはなんとか目を覚まさせようと口を開く。
「ガイアス…あのね、」
「苦しいなら、救ってやる」
「だから……」
「お前が、望むのなら」
「―――――っ!」
その一言で、ジュードの中の何かが瓦解した。
静かに目を見開き、言葉を失う。心臓が異常な早さで脈打って、頭がクラクラする。まるで世界が崩壊していく様な錯覚さえ抱く。
いつもなら気にも留めなかったその言葉が、酷く心に刺さった。
ある一つの仮定が芽生えて離さない。それは瞬く間に成長し、他の思考を全て奪い去った。
馬鹿馬鹿しいと切り捨てるであろう正常な思考は既になかった。もしかしたら、この時点でジュード自身も狂っていたのかもしれない。
もしも、とジュードは思う。
(もし、今までの事全てが、ただ僕が望んだから与えてくれていただけのものだったら……?)
いつから変わったとか、そういうことではない。最初から何も変わっていないのだとしたら。
ガイアスは、そういう人だ。求められたら、応える。ジュードとのこともそれだけだとしたら。
向けられた手が、声が、熱が、たったそれだけのものだとしたら。
目を覚ましたら全て失われてしまうのだとしたら?
「ジュード、どうした?」
ガイアスが低い声で囁く。その瞳には相変わらず闇が揺れている。ジュードはその瞳を真正面から見て、ニコリと笑みを浮かべた。
赤い瞳に自分の顔が移っている。先ほどまで恐怖を感じていたのに、今はそれが酷く愛おしい。
「……ううん、何でもない。ねぇ…愛してくれる?」
「あぁ…。……お前が望むなら」
ジュードはガイアスの背に腕を回す。熱い温度が腕越しに伝わってくる。
(あなたを救いたいのは、本当。でも……)
唇が僅かに触れ合う。それが砂の様に空虚なものに感じて、ジュードは壊れた笑みを見せる。
たとえ心がないとしても、今目の前にいるのが紛れもない本物で、触れている事実があれば十分だと。
(僕はもう、あなた無しでは生きられないんだ)
白に、堕ちる
(こうして僕も壊れていく)
end