鴉の片翼


 この世にヒーローはいない。弱者は強者に搾取される。それが運命であり、真理だ。
ディオは、その運命に抗うために走っていた。
深夜の廃墟群を駆ける、裕福とは言えない身なりの少年。地面には崩れた建物の残骸が 無造作に転がっていて、裸足の足はもう傷だらけだ。
 背後に神経を集中すれば、複数の追手の気配がする。気配はするのに姿が見えないのが 余計に恐怖心を煽った。今止まれば、やつらに捕まってしまう。
限界を超えた体を走らせているのは気力だけだった。

「………ディオ…っ!」

 名を呼ばれた少年は、手をつないで一緒に走っている少女の顔を見た。恐怖と不安に押しつぶされそうになりながら必死で足を動かしている少女を安心させるように、 強くその手を握る。

「…だ、だい、じょう、ぶ!シェラは、絶対……まも、る!」

 その言葉は自分を奮い立たせる言葉でもあった。そう、何としても逃げ切るのだ。
シェラは親を亡くした者同士、支え合って生きてきた家族以上の存在だ。彼女の為にも 何としてもこの場を凌がなくてはならない。

「………くそっ……ちくしょう!」

 ディオは思わず悪態をつく。もしも運命を決める神様がいたら殴り飛ばしてやりたかった。
両親が戦争に巻き込まれて死んだのが7年前。5年前に終戦を迎えて戦火に怯える事は なくなったが、身を寄せていた孤児院の院長が金に困って、一か月前ディオとシェラを ごろつきに売り飛ばした。
 買い手が見つかるまでと、二人はアジトみたいな倉庫へと放り込まれた。 ディオはゴミ以下の扱いで雑用をしながら逃亡の計画を練り、そして今夜ついに計画を決行した。

「ちくしょうっ!」

 自分の力不足への悔しさと怒りで、ディオの眼に涙がにじむ。いつだって、世の中は弱者に理不尽だ。
追手の気配は確実に二人に迫ってきている。このままでは子供である自分たちの方が体力の限界が来てしまうだろう。 そうなればシェラはどこかに売られ、ディオはボコボコにされて殺される。

「……ディオ?!」

 小さい広場みたいな空間に出たディオはシェラから手を離し、追手と彼女の間で壁となるように立ちはだかった。 急に止まったせいで心臓が爆発しそうだが、必死に息を吸い込んで叫ぶ。

「シェラ!逃げろ!」
「や、やだ!置いてけないよ!」

 シェラの泣きそうな声が聞こえる。良いから逃げろ、と口を開いた瞬間、突如影から飛び出してきた 大柄の男に思いっきり頭を殴られた。

「ディオっ!」

 シェラの悲痛な声が聞こえた。一瞬意識が吹き飛び、そのまま壁に叩きつけられる。口の中に鉄錆みたいな味が広がってむせそうになった。 鼻が熱い。触るとぬるりとした液体が手につく。霞む視界で路地の方を見ると、男達の姿が20人ほど確認できた。 追いつかれてしまった。絶望と恐怖が心を覆い尽くし、一気に全身から力が抜ける。

「手こずらせやがってこのクソガキがぁっ!」

 必死に立ちあがろうとしたディオの腹に、男たちは容赦ない蹴りを入れる。内臓が全て出ていきそうな衝撃。 ディオは明滅する視界の中、ちくしょう、ともう一度心の中で悪態をついた。

「おい、クソガキ。このまま死ねると思うなよ。死んだ方がましだと思える苦痛をたっぷり与えてから、 生きたまま魔獣のえさにしてやる」

 大柄の男に髪を鷲掴みにして無理やり顔を上げさせられる。目の前には禍々しいとさえ思えるほどの憎悪と殺意に満ちた男の顔。 シェラが駆け寄ろうとしたが、他の男に取り押さえられてしまう。男はディオを地面に叩きつけ、腰に差していたナイフを大きく振り上げた。

「くたばれ!!」

 男の声に、ディオは死を覚悟して目を閉じた。

………が、いつまで経っても衝撃が来ない。

体中の痛みが、ディオがまだ生きている事を知らせてくれる。おそるおそる目を開けると、そこにはディオの想像の範疇を遥かに超えることが起こっていた。

「え……」

 ナイフは確かにディオに向かって振り下ろされている。それがディオに届いていないのは、ディオと男の間に割り込んだ存在がナイフを掴んで止めていたからだ。

その命を助けてくれた存在は―――…

「……ぺ、ぺんぎん…?」


 寒い所に住んでいるとかいうあのペンギンが倒れこんだディオの腹に乗り、手…というか翼で白羽取りをしていた。 ウエストバックを巻き、二頭身という可愛い体型のくせに目つきが悪い。 誰もが予想外の事態に固まっている中、ペンギンはスッ、とナイフを横にずらした。

そして器用にグッと

身体を丸め――…

飛んだっ!

「ぐぎゃぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!!!」

 凄まじいスピードで黒い砲弾と化したペンギンが鳩尾にめり込んだ大柄の男は、凄まじい悲鳴を上げて後方に吹きとんだ。 頭から壁にぶち当たり、白目をむいてそのまま地面に崩れ落ちる。

「な………なに……?」

突然起こった事態についていけなかった他の男たちは、呆然とその様子を見ていた。

「ぎゃっ!!」

 男達にまるで追い打ちをかけるように、カエルがつぶれた様な男の悲鳴が広場に響く。 男たちがビクリと肩を震わせて音のした方を見ると、少し離れた所にいた男が地面にキスするように倒れていた。手が痙攣させて口から泡をふいており、 まるで上から降ってきた何かに潰されたようだ。

「あぁ…やばい、やっちゃったなこれ」

 その台詞は男を踏んづけて立っている女性が発したものだ。 どこからか突然現れた女性は、まるで夜を切り取って表れた様な姿をしていた。