3
屋上の入り口にメルが立っている。
手に洗濯物の入ったカゴを抱えている所を見ると、洗濯物を干しに来たらしい。
「お前……いつから」
「いつって、今だけど?」
きょとんとした顔で答えるメルを見ながら、レイは心の中で己を叱咤する。
目の前のカゲザキに意識を集中していたせいで、メルの存在に気付けなかった。あまりに初歩的なミスだ。
激しい自己嫌悪に陥っているレイをなおざりに、カゲザキはシルクハットを上げてメルに声をかけた。
「やぁ、メルさん」
「あらぁ!カゲザキのおじさまじゃない、おひさしぶりぃ」
何かご用かしら?とメルが愛らしく小首を傾げると、カゲザキは心底困った様に眉尻を下げた。
「せっかく良い依頼を持ってきたんだが、君のマスターが渋っていてねぇ…」
「おいっ!」
「依頼?!」
レイの咎めるような声とメルの喜びに沸いた声は、ほぼ同時だった。メルは頬の近くで手を組んで、体を色っぽくしならせる。
「やぁんおじさま太っ腹ー!」
「そういってもらえるとここまで来た甲斐があるねぇ。詳しい話を君のギルドマスターと話したいから、洗濯は少し待ってもらえるかな?」
「オッケー!」
「な…お、おいっ」
レイが阻止する暇もなく、メルはさっさと屋上を引き返してしまった。
階段の向こうで扉が閉まる音がしたと同時に、シルクハットをかぶり直したカゲザキはクククッと神経を逆なでる笑みをもらす。
「どうやら君のギルドメンバーは受諾する気があるようだねぇ。あとはマスターだけというわけだ」
「マスター“代理”だ。間違えるな」
レイは低い声でそう言い、冷ややかな視線をカゲザキに向ける。
刺すような視線を受けたカゲザキは、やれやれと軽い調子で肩をすくめた。
「それじゃあ、マスター“代理”さん?そろそろ堂々巡りをやめて話し合いをしないかい?」
もう断れないだろう?と言外に告げるようなその言葉に、レイは聴こえる様に舌打ちをした。
既にメルによって、奏達にも伝わっているだろう。しかもついさっき依頼が来ないことで奏と揉めたばかりだ。
ここで断ったりしたら激しく糾弾される事になる。将を撃つならまず馬を射よという言葉があるが、まさに馬を射られた状態というわけだ。
沈黙を肯定と受け取ったのか、カゲザキは口を開いた。
「依頼というのは護衛なんだけどね。来週政府の高官の娘さんの結婚式が開かれるんだが、それを邪魔しようとする連中がいるらしくてね」
「喉から手が出るほど欲しがる大規模ギルドが山ほどあるだろ」
常識と言えば常識だが、護衛は人数が多いほど成功率が上がる。
特に結婚式なんて大きなイベントなら、ある程度の人数を揃えているギルドに依頼した方が確実だ。
ギルド『Raven's Wing』は残念ながら4人と1匹しかいない。討伐依頼ならともかく、護衛は最も不得手とする分野である。
「……そのお偉いさんの結婚式をぶち壊したいのか?」
「まさか!有象無象に用はないのでね。単純に力で選ばせてもらった」
「力なら尚更余所をあたれ。私は、攻めは得意でも守りは嫌いだ。人数的にも無理がある」
「無理ではないさ。君らは“ネームレス”だろう?」
レイはその台詞にピクリと肩を震わせた。
カゲザキは、暗い笑みを浮かべてレイの左手を指差して言う。
「“大戦の遺物”、“狂った研究者の作品”“人の形をしたばけも……」
「黙れ」
ひやり、とナイフの様に鋭く冷えた声。
カゲザキに向けられた左手にはいつの間にか銃が握られていた。手袋の下から仄かに光が漏れている。
「それ以上言うなら、殺すぞ」
カゲザキを見るレイの瞳や表情からは今までのどこか気だるそうな雰囲気から一転、一切の感情が消え失せている。
普通の人なら震えて声も出ない様な威圧感の前で、カゲザキはなお笑ってみせた。
「ほら、それは力で出現させたものだろう?」
「黙れと言ったはずだ」
「常人にそんな芸当はできない、君らは人とちが…」
「黙れと言ってるだろうが!」
ダンッ!と破裂音が屋上に響いた。レイは激情をコントロールするように荒くゆっくりとした呼吸を何度も繰り返す。それでも抑えきれないのか、僅かに瞳の周囲の筋肉が怒りに細かく震えている。
弾はカゲザキの頬をかすめていった。避けたのではない。レイが外したのだ。
「…君が感情を出すなんて、滅多にないねぇ」
レイはグッと奥歯を噛んで無理やり感情を抑え込み、拳銃を下ろした。
「私らは万能じゃない。致命的な欠点もあれば、制限もある。護衛の人数不足を補えるほど有能じゃない」
「ふぅむ……。それは困ったねぇ…」
「お前が困ろうと知った事か、さっさと帰れ」
突き放す様に言ったレイを見て、カゲザキはフフフッと意味深な笑みをもらした。
「いやいや、困るのは君達さ。私はこの仕事を受けてほしいあまりに、様々な所に圧力をかけて、
君らに渡せる仕事を全て他に流してしまうかもしれない。これからの仕事全てを、ね」
レイの動きが一瞬固まった。慎重に視線を巡らせ、台詞の意味を吟味する。仕事を全て他に流されるという事はギルドにとって
致命傷を負わされるのと同意語だ。
「………ギルドと中央政府は依頼関係以外、相互不干渉のはずだが」
「窮地に追い込まれれば、どんなことも可能に出来るんだよ? それに、もう月末だけど家賃の目処は立ってるのかな?」
駄目押しとばかりに放たれた台詞にレイは完全に閉口する。勝利を確信したカゲザキはおどけて笑った。
「やだなぁ。ここで黙られてしまうと、まるで私が力づくで仕事させるみたいじゃないか」
「事実だろ、腐れ狸」
「そう怖い目をしないでほしいな。言いそびれていたけど、君の興味のありそうな事もあるんだから」
意味が分からずに眉を寄せると、カゲザキはもったいぶる様に一度瞼を閉じた。
「今回の結婚式をね…“魔人信仰者”共が狙っている可能性があるんだ」