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「なぁにそれ、カード?」

 メルはいかにもがっかりしたという口調で言った。無理もない。中に入っていたのは封筒の半分くらいの大きさのカードが一枚だけ。 どう見ても大した価値があるものではなさそうだ。
 メルの興味は完全に消え失せたらしく、つまんなーい!とソファーに再び寝転がった。

「つまんないつまんないー!あーもう、やっぱ昨日もっと暴れたかったー!」

「物騒な事言うな、お前の場合シャレにならん…………ん?」

 レイの指がカードの裏をなぞった瞬間、指先から妙な違和感が伝わってきた。ひっくり返してみると、短い文章が書かれている。

「………これは」

 文面を追ったレイの瞳が静かに見開かれた。
 周囲の音が一気に遠くなる。喉の奥がカラカラに渇く感覚がして、生唾を飲み込んだ。

「洗濯洗剤も買い足しましたし、これで大丈夫ですねー。………レイ?どうかしましたか?」

 奥の部屋からヨルと戻ってきた奏が、カードを見たまま動かないレイに気づいて声をかける。 我に返ったレイは素早くズボンのポケットにカードを滑り込ませ、一瞬にして表情を元に戻して振り向いた。

「何でもない」

「そうですか…?」

 視線に疑惑が混じったのを視て、レイは話題を変えるべく机のペンを手にとり奏に見せた。

「あー、そういえば私のペンのインクが切れてたんだ。ちょっと買ってくる」

「はい?インクですか?」

「至急必要なんだ。すぐ戻る」

 それ以上の追及を避けるため、レイは誰とも視線を合わないままロングコートを無造作に羽織った。
 ヨルの声が聞こえた様な気がしたがそれも無視してブーツをはきながら外に出て、後ろ手で扉を閉める。

「………ふぅ」

 ブーツをはき終えると、レイは深い息を吐いて扉に寄り掛かった。その顔には後悔の色が浮かんでいる。 あんなにわざとらしい行動をとってしまっては、何かを隠していると言っている様なものだ。

「修行が足りないな、私も」

 無意識のうちに、レイの手がズボンのポケットに触れる。
 ポケットに手を突っ込んで取り出したのは、小さな木製の飾りが二つ付いたネックレス。 手彫りらしく形はいびつだが、どうやら鳥が横を向いているものらしい。
 それを強く手の中に握りこんだ後、レイは道路側―ではなく屋上への階段に足を向けた。

「ここは風が心地いいねぇ」

 屋上まであと数段といった辺りで、不意に屋上から男の声が聞こえてきた。 レイ達以外住人がいないこのビルに他人がいるはずないのだが、レイはそのおかしな事態に動揺せず、静かに瞳を細める。

「………うっ」

 屋上に足を踏み入れたレイは、急に開けた視界と日差しに反射的に手をかざした。
 屋上からは雑然としたカルムの町並み、トレスタとインフェルノを分かつ壁、天高くそびえるセリスの塔が一望できる。
 声の主は、それらを背景に佇んでいた。

「ここは全てが見える。風も景色も一等地だ。そう思わないかい?」

 洗練された燕尾服姿にシルクハットをかぶった中年男はそう言って、挨拶代りに軽く片手を上げた。 手足は細く、何の特徴もない顔には作り物めいた無機質な笑み。
 真っ白な紙に一滴だけ垂らされた黒インク―――そんな例えが浮かぶ程、インフェルノの空気とその男は不釣り合いだった。

「セリスの人間がインフェルノを“一等地”ね…。高度な嫌味だ」

「純粋な褒め言葉じゃないか、レイ」

 男の襟元には、上流階級層のみが住むセリスの住人であることを示す金色のバッジが光っている。 それを一瞥して、レイはわざとらしく自分を抱き込むような仕草をした。

「気安く呼ぶな。ぞっとする」

「気安くも何も…それが今の君の名前だろう?」

「関わらなければ呼ぶ必要もなくなるだろ。私もストレスを感じずに済むし、万事解決だ」

 傍からその光景を見る者がいたら、さぞ奇怪なものに映るだろう。
 軽い口調で成される会話。にもかかわらず、屋上に漂う空気は動いたら切れそうな緊迫感に満ちていた。

「それで? こんなふざけた招待状まで送って一体私に何の様だ……カゲザキ」

 レイはカードの文面が書かれた方を男、カゲザキに見える様に突きつける。カードに書かれていたメッセージは短く単純だった。

『“黒衣の死神”、仕事の依頼有。屋上へ』

 カードを見たカゲザキはフッと笑いをもらすが、その反応さえどこか嘘くさい。 まるでアンドロイドが人のマネをしているような薄気味悪さを感じさせる。
 本能的な嫌悪感を隠しもしないレイを見たカゲザキは楽しそうな声音で答えた。

「会うたびに気安く呼ぶなと怒られてしまうからね。ならばと昔の名にしただけじゃないか」

「……アンタらが勝手に呼んでただけだ。私の名前じゃない」

「現に内容に反応してここに来たじゃないか」

「封筒に“レイへ”と書かれていたからだ。文面の方じゃない」

 平静を心がけたつもりだったが、その声は押し殺しきれない険呑な空気を放っていた。
 が、カゲザキは臆することなく「その割には随分気にしてるようだけどねぇ」と小声で呟く。

「何か言ったか」

「…いや? 用はそこに書いた通りさ。ただの仕事の依頼だよ」

「依頼ぃ?」

 予想していなかった回答に思わず語尾を上げ、レイは探る様な視線をカゲザキに向ける。正直、ろくな予感がしない。

「断る」

「即決だね?内容を聞いてからでも悪くはないと思うけど」

「断る。アンタ経由の依頼は断ると決めてる」

 きっぱり言い切るレイの目には何の迷いも生じていない。
 ギルドと政府は相互不干渉が暗黙の了解だが、時折政府の手が回らない問題をギルドに頼む場合がある。その二つを繋ぐパイプライン的な役割がカゲザキらしい。 通常、政府から何らかの依頼があった場合、カゲザキの仲介を経てギルド連盟本部が条件に合うギルドを招集するはずだ。
 その手順をすっ飛ばしてカゲザキ本人がここにいるという事は、大衆に知られたくない系の仕事である確率が高い。

「お金に余裕があるわけでもないだろう?報酬の額は保証するよ?」

「アンタの依頼受けるくらいなら、ドブ掃除してた方がまし―――」

「あらぁ?レイ、インク買いに行ったんじゃないのー?」

殺伐とした空気の屋上に呑気な声が聞こえ、レイは反射的に振り返り―――言葉を失った。