赤一色の世界だった。毎日寝ていた小屋が燃える火の赤。剣や魔法の稽古をしていた広場に出来た、血だまりの赤。
日が西の山に沈み始めた空だけは、泣きたくなるくらいに綺麗な緋色で。
油の焼ける焦げた匂いと煙と血の匂いが肺に入ってきてむせかえりそうになる。
「……うっ!」
リルは地面に転がっていた何かに足を引っ掛け、ロクな受け身もとれずにばちゃん、と血と泥の混じったぬかるみに倒れ込んだ。
腹や腕を強く打ちつけ、跳ねた泥水が口に入ってくる。口に広がるざらつきと吐き気に、リルの緑の双眸から涙がポロポロとこぼれた。
「…うぅぅ…」
こんなのあんまりだ、神様。リルは声に出さずに呟いた。
ここは戦争に参加している兵士や奴隷が寝起きしていた場所で、罪が全く無いじゃない。でも、こんな仕打ちを受けるほどじゃなかったはずだ。
足を取られた“それ”は夕飯の支度をしていた男“だった”。少し離れた所では、いつも隣で寝ていた少女が四肢を投げ出しぬかるみに顔を沈めている。
どこを見ても死体、死体。さっきまで生きていたはずの人達が皆、物言わぬ肉塊になり果てている。
力なく開かれたままの澱んだ瞳と目が合い、リルは恐怖と生理的な嫌悪からヒッと声を引きつらせた。
「おい、こっちで今何か聞こえなかったか?」
知らない男の声と足音が聞こえ、リルは喉から出かかった声を呑み込んだ。恐怖に震える身体を必死に引き摺り、火の手が迫っていない木箱の山の影に隠れる。
そっと声のした方を窺うと、広場に人影が見えた。
「誰もいねぇな。気のせいじゃねぇか?」
「おかしいな……確かに何か聞こえたんだが……」
「動物でもいたんだろ」
広場にいたのは甲冑をまとった三人の男。目の前で人が死んでいるというのにまるで気にも留めない。
手に握られた剣の先からは赤黒い血がぽたぽた地面に垂れている。
仲間を殺したのは彼らなのだ、という確信に全身の細胞が恐怖と怒りに沸いた。熱い、寒い、複雑に入り混じった異常な感覚がリルの身体を駆け抜ける。
しかしその激情も、男達の胸に刻まれた紋章をみた瞬間砕け散った。
(ど、うして………)
言葉をギリギリ声に出さなかった自制心を褒めたかった。足元が瓦解していく様な錯覚にさえ襲われる。
リルはまだ幼い。それでもあの甲冑を、それが示す事を、リルは知っている。知っていても、脳がそれを受け入れられなかった。
(だって、あれは……あれは……)
パキッ
無意識に後ずさっていたリルの傷だらけの足が、傍の木材を踏む。聞き取れるかも分からない微かな音だったが、不運な事に男の一人が気づいた。
こっちを見て、他の二人に向かって大声をだす。
「おい!こっちにまだガキがいたぞ!」
「何?!隠れてやがったのか!さっさと殺せ!」
リルは慌ててその場から逃げだそうとしたが、心臓を鷲掴みされた様な恐怖に足がもつれ、地面に再び倒れこんでしまう。
言う事をきかない身体を叱咤して上体を起こした時、すぐ後ろから男の足音が聞こえた
「死ね!」
追いついた男の一人が、リルに向かって剣を振りおろした。僅かに身を逸らしたリルの眼前を、チッと風を切るような音を立てて剣が通過する。
腕や身体の震えが、次は避けられないと訴えていた。
それでも身をよじらせ男から距離を取りながら、リルは涙まじりの声で叫ぶ。
「やっ、やだ! こないで!」
「恨むんだったら、この時代に生まれた事を恨め!」
男はリルの必死の叫びを嘲笑い、剣を再び振りかぶる。炎を反射して赤い光を放つ刃は、リルが今まで見た何よりも禍々しく見えた。
(殺される――――っ!)
己を襲う死の予感に、リルは身体をこわばらせて目をギュッと閉じる。ザシュッと血肉を貫く生々しい音が聞こえた。
鉄錆の匂いがする温かい液体が顔にかかる。
「ぐ……」
「え………?」
くぐもった音を上げたのはリルではなかった。冷静に自分の状況を確認すると身体に痛みはなく、顔にかかった血も自分のものではない。
顔を上げると、男とリルの間に割り込んだ誰かの背が見えた。
刃はその身体に突き刺さって止まっている。その人物の顔を背中越しに見たリルは、呆然と目を見開いた。
「じ、じーちゃ、ん……?」
「リ……ルー、シャ……」
刃を受けた“じーちゃん”は、顔だけ振り向いていつもと同じように優しく笑う。
「にげ、なさい……」
“じーちゃん”はそれだけ言ってゴボリと大量の血を口から吐くと、ドサッと重たい土袋が落ちるみたいな音をたてて倒れた。
「あ………」
あまりに呆気なく動かなくなったその姿に、リルの口から魂が抜けたような声が漏れる。ぷつ、と何かが切れる音が耳の奥で聴こえた。
「い、いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!じーちゃん!じーちゃん!」
“じーちゃん”にすがって叫んでも返事はない。切り口から血が溢れだして、リルの服を汚していく。
その光景を見た男は表情を変えるどころか、忌々しそうに剣の血を払って吐き捨てる様に言った。
「この、死にぞこないが!邪魔しやがって!」
「じーちゃん!じーちゃん!いや、いやだよ…じーちゃ………っ?!」
リルの嗚咽がそこで止まった。
ドクン、と心臓が跳ねる音が聞こえ、謎の熱に身体を貫かれる。
「………っく」
まるで体内で大きな化け物がのたうち回ってるみたいに、グラグラと煮えるような熱。リルは身体をくの字に折って膝をついた。
「あぁ?何だこいつ」
いきなりその場にうずくまったリルに、男はゴミでも見る様な視線を向けた。その視線を受けても尚、動く事もままならない。
ここで死んでしまうのだろうか、脈打つ苦痛の中でリルはぼんやりと考えた。“じーちゃん”に逃げろと生かされた命なのに、
むざむざとここで死ぬのだろうか。
「チッ!邪魔なんだよこのジジィ!」
男が“じーちゃん”の身体を蹴り飛ばそうとした瞬間、リルはカッと目を見開いて叫んだ。
「じーちゃんに触るな!」
鋭い声に呼応するように体内に渦巻いていた熱が弾けた。リルの周囲に熱の塊がいくつも生まれ、男の身体を呑み込む。
熱風に煽られた男の皮膚があっという間に焼けただれ真っ赤に腫れあがる。男は顔を抑えてしばらくのたうちまわっていたがやがて、
パタリ、と仰向けに倒れたまま事切れた。
「ちくしょう、やりやがってこのガキ!」
「魔法か?!」
残った男たちが口々に何かわめいていたが、リルの耳には届かなかった。ポカンと口を開けて自分の手を見つめる。
今のは確かに魔法だ。
でも、いつもと違う。自分が自分でなくなったような感覚だった。
「このガキ!なめやがって……」
剣を取って斬りかかろうとした男達が、リルの目を見て動きを止めた。男達の目の中に映る自分と視線が合い、リルも思わず言葉を失う。
濃緑色だったリルの瞳が虹色に変わっていた。複数の色がオーロラの様にゆらゆらと明滅する虹色の瞳。
ぼんやりと光を放つそれは、男達と彼らの目に映るリル自身を見つめていた。
「ば、ば、化けものぉぉぉぉ!」
男達は誰からともなく一斉に叫んだ。顔には先ほどまでの余裕は消え、恐怖一色に染まっている。
男達は転がるように我先にと森の向こうへ走り去っていき、周囲に沈黙が戻ってきた。
後には冷たくなった仲間と燃え落ちる小屋だけが残され、リルは魂が抜けたようにその場に座り込む。
「じーちゃん、ティカ…アグナ……」
消えてしまいそうなほど小さな声で仲間の名を呼ぶが、反応は帰って来ない。
いつの間にか日は完全に沈んでいた。上を見上げると、あれだけ綺麗な夕日を見せていた空に厚い雲が広がり始めている。
『山の天気は変わりやすいから、気をつけるんだよ』という“じーちゃん”の声が聞こえた気がした。だが、もうその言葉を直接聞く事はない。
目の前に倒れこむ冷たい身体が、その現実を何よりも物語っていた。
「………」
リルは空に向かって幽かに口を開いた。が、言葉を発する事はなく、心の中で渦巻く全ての感情を抑え込むようにグッと唇を引き結ぶ。
しばらくの沈黙の後、リルは再び口を開き、今度は大きく息を吸った。
「あ…あぁ……あぁぁあぁぁぁぁあっ!!」
喉から放たれたそれはもはや人間の言葉ともとれない、ただの獣の咆哮だった。
言葉にならない激情を全て吐き出すように、空に向かって吼える。
ぽつり、と肌に水滴が落ちた。一つ二つと水滴は増えていき、次第にサアァァと細かい雨へと変わっていく。
「……て、たのに……」
嗚咽と雨音の間から、振り絞る様な声が聞こえた。
「信じてたのに……っ」
リルの台詞の真意を問える者は誰もおらず、無情に時だけが過ぎていく。
雨足は段々酷くなり、地面の血が徐々に薄まりながらどこかへ流れ始めた。その雨に流される様に、死んだ男の胸についていた紋章がズレて、
びちゃ、と水音を立てて地面に落ちる。
焼け焦げた紋章。刻まれていたのは、リルがほんの数分前まで味方だと信じていた国の国旗だった。