断界殻の消滅により、リーゼ・マクシアとエレンピオスが融合した世界。遮るものの無くなった空はどこまでも澄み渡った青色だ。

カン・バルクの王城の窓から空を見ていたガイアスは赤い瞳を細めた後、目の前の机上に置かれた書類に目を通す作業を再開する。

価値観も文化も文字も違う世界の統一はかなり大変なのだ。最近はだいぶマシになったが、一時は正直四象刄を再構築しようか真剣に検討したくらいだ。



(だが、止まるわけにはいかん。それが約束だからな)



イル・ファンで源霊匣研究に精をだしているであろうジュードを思い浮かべ、ガイアスは小さく相好を崩す。

そういえば互いに忙しくてもう随分と会っていない。 元気なのだろうか。

研究団体から上がってくる報告書にサインがある以上生きてはいるだろうが、ガイアスが知りたいのはそれではない。

いや、それも大事なのだが。

ジュードの様子を知る方法はローウェンの元に送られてくる伝書鳩くらいだ。様子を聞くと、いつもローウェンはニヤリと人の悪そうな笑みを浮かべて

「いやぁ、ジュードさんはお優しいですねぇ。いつも私の腰の調子はどうかとか、体調はどうかとか心配してくれるんですよー」と自慢げに話してくる。



「………」



思い出してイラっときた。どうせ書くならローウェンじゃなくて自分に書けばいいのだ。



「…はぁ」



思わずため息がこぼれた。早急に片付けなければいけない案件が片付いて気が抜けているのだろうか。さっきからジュードの事ばかり考えている気がする。



『陛下、いらっしゃいますか?』



コンコン、と控えめなノックがされ、扉の向こうから声が聞こえた。雑念を全て振り払う様に頭を軽く振ってから「入れ」と許可すると、扉が静かに開かれる。

入ってきたのはローウェンだった。



「部族内戦が収束に向かったそうですよ。報告書を預かっています」

「あぁ、読ませてもらう」



紙を受け取ってそう応える。いつもならそこで一礼してそのまま部屋を去っていくのだが、



「…どうした?まだ何か用か」



ローウェンが何とも言い難い表情でガイアスを見ていた。



「…最近休まれましたか?」

「睡眠は支障のない程度に取っている」

「体ではなく…そうですねぇ…リラックスと言いますか、心の休息と言いますか……」

「俺には必要ない。今は公務の方が先決だ」



ローウェンの言葉を切って捨てる。それは紛れもない本音だ。問題はまだ山積みで、人々を導くと宣言した以上それを成さねばならない。

ウィンガルならこれで引き下がったが、ローウェンはそうもいかないらしい。しばらく悩む様な仕草を見せた後、ハッと何か思い出したように顔を上げた。



「そういえば……明け方伝書鳩が届きましてね」



胸元から少し厚めの封筒を出しながらローウェンは言った。“伝書鳩”という単語に思わず一瞬動きが止まる。

それを目ざとく見つけたローウェンは畳みかける様に言葉を続けた。



「皆さんそれぞれ元気に過ごされているようで安心しました。レイアさんもエリーゼさんも日々色々な事を発見なされているようで、

アルヴィンさんも故郷がかかっていますから頑張っているようです。それで、ジュードさんは源霊匣研究、頑張っているようですが……」



わざとらしくそこで言葉を切られ、何かあったのではないかという不安が心の中に芽生える。嫌な想像を抑え込み、先を促す。



「ジュードがどうした」

「スケジュールを見る限りあまり休まれていないようです…」

「そうか……」

「えぇ、ジュードさんはそりゃもう無茶をされるのですよ。人の為にならどこまでも自分を犠牲にしてしまいます。

このままでは倒れてしまうのではないかとジジイは心配で心配で……」



ご丁寧にハンカチまで取り出して涙を吹く演技をしてみせた。わざとらしいが、言ってる事は一理ある。

ジュードは芯が強くなったし、戦いで自分にも打ち勝った事もある。が、それでも身体が人より丈夫という訳ではない。

研究や学会での発表という馴れない環境ならなおさら疲労は溜まるだろう。ローウェンの心配はわかる。



「…休暇なら届けを出しておけ」

「おや、誰が行きたいと言いましたか?」

「…?」



あんなに回りくどい事をしたくせに、ローウェンはシレっとそう答えた。

ガイアスが真意を探る様な視線を向けると、ローウェンは茶目っ気たっぷりの笑みを含んだ表情で言った。



「ガイアスさん、ジュードさんの様子を見てきてくださいませんか?」



・・・・



精霊界は清々しいくらいのマナに満ちている。新しい精霊の誕生を見るのも楽しい。ミラの新しい生活は後悔する様なことなどないくらいに幸せで誇り高いと思う。

ジンの脅威も激減している。あちらでジュード達が頑張っているのだろう。きっといつかジンが使われなくなる日も来るだろう。

それまで自分は新たな精霊の誕生を見守る。何も問題はない、はずなのだが、



「………ふむ」



ミラはいつものように丘に立ち、空を見上げながらお腹をさすった。



「これは、あれか。空腹の感覚なのだろうか」



まるでパズルの1ピースが欠けている様な、どこか空虚で奇妙な感覚。

精霊になったし四大精霊もいるのだから空腹の感覚もなくなるはずなのだが、一体どうした事なのだろうか。それに、空腹とはどこか違う様な、そんな気もしている。



「ミラ、どうしました?」



ウンディーネが心配そうに近寄ってくる。その後ろを見れば他の四大もミュゼまでいた。



「ふむ…おかしなことに空腹なのだ」

「空腹?マナに満ちた精霊界ですか?」

「やっぱミラっておかしいよなぁ〜」

「人の感覚が残ってるのかもしれぬ」



やいのやいの騒ぎだす四大の前でミラは黙ってお腹に手をあてる。ふとジュード達と旅した時の記憶が蘇ってきた。

ミラが腹の音を鳴らすと、皆驚いたようにこっちを見た後「そろそろご飯にしようか」と笑ったものだ。まだそんなに経ったわけでもないのに随分と懐かしい。



「でも、困りましたね。精霊界には人間の感覚を満たせそうなものがありませんよ」

「マナの塊だしね」

「いっそマナを固めて喰ってみるのはどうだ」

「ぜったいおいしくないでし」

「だいじょうぶだ。気にしないでくれ。死にはしないだろう」



心配そうに対応策を話し合う四大にそう笑いかける。精霊としての身体はマナがあれば生きていける。

人としての感覚が残っているとしても食べなかった所で支障はでないはずだ。



「ミラ、一度人間界に行ってみてはどうかしら」

「は?!」



ミュゼの突飛ともいえる案にミラは思わず声が裏返った。ミュゼは優雅に頬に手を当ててのんびりと言う。



「だって、“空腹”というのは気になるでしょう?満たしてしまえば大丈夫じゃないかしら」

「い、いや、ミュゼ、精霊界と人間界は隔絶されていてだな」

「完全ではないわ。向こう側にいる時間が限られるだけで、精霊と人は繋がっているのだから」



ミュゼが手を伸ばし、手の平に小さな時空の裂け目を作り出した。



「ほら、私も世界を繋ぐ力はまだ残っています。もちろん、ずっとあちらにいる事はできませんが…」

ミュゼの手の中の時空の裂け目を見た瞬間、ミラの心に激しい衝動が生まれた。

向こうに行きたい、ジュードに一目会いたい。互いになすべき事がある以上ずっとはいられない。

だが、ほんのわずかな時間なら会いに行ってもいいだろうか。それを甘えとは言われないだろうか。



「ミラは自分に厳しすぎでし」



心を見抜いたようにノームが言った。それに続くように他の三体も続く。

「そうですよ。ミラは抱え込みすぎなのです」

「我らがいることを忘れてはこまる」

「ミラがちょっといなくなったくらいで困りゃしないよ」

「う……っ。お、おまえたちなぁ……」



精霊の主だぞ私は、という言葉を呑み込んだミラは叱られた子供の様に口を尖らせる。

しばらく心の中で激しい葛藤を繰り返し、諦めたようにため息をつく。やはり一度芽生えた衝動には勝てない。



「……わかった。好意に甘えさせてもらおう。ミュゼ」

「わかりました」



にっこりとほほ笑み、次元の裂け目をミラの近くに展開する。人一人通れそうな大きさになった時、ミュゼが「ミラ」と声をかけた。



「どうした?」

「貴女の身体はもう精霊よ。ほんの少ししか向こうに行けないわ。忘れないで」



ミラはフッと笑って小さく頷き、次元の裂け目に身を投じた。懐かしい感覚が体中を巡る。

僅かな時間しか行けないのなら、行き先はもう決まっている。