遠い記憶

炎―――違う、鳥だ。

遠い夏の日、少女は羽ばたく銀の鳥を見た。





うんざりするくらい真っ青な空に、綿を適当に丸めた様な雲がぽっかりと浮かんでいる。

縁側に置かれた古くさい扇風機が真夏独特の張りつく様な湿気を含んだ空気をかき混ぜ、傍に座る少女の髪を揺らす。

少女は娯楽に飢えていた。

最初は楽しい夏休みも、半分過ぎるとやることが無くなってくる。遊びに行きたくても、幼馴染たちは家族旅行中。

兄も用事で出かけてしまった今、少女は家にひとりぼっちだ。

(何かないかなぁ、楽しいこと)

ひとりぼっちの留守番というものは、一種の拷問である。ゲームや漫画など、時間を潰せる類のものが家に無いとなっては尚更だ。

積もり積った退屈さと刺激を求める冒険心は、少女の中の自制心を打ち破るのに十分だった。

少女は縁側の端にある納戸を見る。そこは、『決して開けてはいけないよ』と兄に強く言われている場所だ。

兄の言いつけを従順に守る様な性格ではないのだが、そこだけは触れた事が無かった。清められた聖域の様に重々しく、近寄りがたい空気を何となく感じていたのだ。

しかし、退屈に支配されている今は違う。坂を転がる球の如く加速した衝動に押される形で、少女の指先が扉にのばされた。

ピリッ

扉に触れた瞬間、静電気に近い痛みが指先に走った。反射的に指を引っ込めて確認するが何の傷もなく、扉にも棘などはない。

気のせいだったのかな、と少女は首を傾げて再び手を伸ばす。扉に触れる瞬間、少女の指先が迷いをみせたが、今度は何の痛みもなかった。

僅かに扉に力をかけると、真夏だというのに、ぞく…とした寒気が頬を撫でる。冬の刺すような冷気と違い、しんと張りつめた空気は異界のもののようだ。

細く開けた扉の奥に広がる、ただならぬ気配と深く澄んだ闇。本当に開けてはいけないものに触れたのではないか、という恐怖が脳裏をよぎる。

一抹の不安と共に納戸の扉を完全に開いた少女は思わず目を丸くした。納戸の中には古書や大小様々な箱、複雑な図形の描かれた和紙といった類が雑然と積まれていたのだ。

神秘的な雰囲気と釣り合わない光景に多少がっかりしたが、その反面ホッとしたのも事実だ。同時に、恐怖で抑圧されていた好奇心が再びうずき出してくる。

少女はキョロキョロと納戸の中を見回し、目についた白い箱を縁側に引きずり出した。装飾も文字も一切なく、靴や鞄でも入っていそうな箱。何故目が留まったのかも分からない。

だが、少女は大切な宝箱を開く時と同じ、息が詰まる程の期待で胸がいっぱいだった。

箱の蓋を開けると、円盤型のCDケースを大きくしたような形の装置が収まっていた。鉄製のそれには鎖が十字にかけられ、それを縫いとめるように鍵が中央に突き刺さっている。

まるで装置の中にいる“何か”を閉じ込めるかのようだ。

尋常ではない拘束に、氷が肌を撫でるようなヒヤリとした空恐ろしさを感じさせる。

恐る恐る少女が触れてみると、冷たそうな見た目と反して微かな熱を返してきた。生まれる前の卵みたいだ、と少女は何となく思う。

早く拘束を解いてと訴えるような仄かな熱。その温度に誘われるまま、少女が鍵に手を伸ばした。その瞬間――

“それ”は起きた。

指が触れるか否かという辺りで鍵がボウ…と光り、円盤型の装置全体も銀色の光に覆われる。

咄嗟に手を離そうとしたが、身体が石の様に固まって動けない。ィィィィィンと複数の金属が共鳴する様な音を立てながら強さを増した光はある一点に達した途端、パンッという破裂音を立てて弾ける。

四散した光の筋は意志を持つかの如くグンと弧を描いて上昇し、家の屋根と同じの高さまで上がって再び一つに収束した。

ぶつかった瞬間起こった強い閃光に、反射的に目を閉じる。しょぼつく目で何度も瞬きを繰り返しながら空を見上げた少女は、言葉にならない声を漏らした。

空にはもう光の塊はなく、代わりに “鳥のようなもの”が両翼を広げて飛んでいた。

本当に“鳥のようなもの”としか言いようが無い。姿形は限りなく鳥に近いが、その身体は羽毛の代わりに銀色に煌めく炎で覆われている。

どの動物図鑑にも載っていない“鳥のようなもの”は自由を味わうように滑空し、長い尾や両翼を動かす度に銀光が花弁のように風に舞う。

綺麗だ、と少女は純粋に思った。

幻想的な光景を見つめる少女の唇に力がこもる。困惑や感動など心中で渦巻く様々な感情を抑えきれず、今にも泣きそうな表情になってしまう。

苦しくて甘いその感情は恋にも似ている。事実、少女は目の前の光景に魅了されていた。目が離せない――いや、離したくない。

あれは一体は何なのだろうという疑問より、もっと見ていたいという欲だけが思考を支配する。

だが、その願いは叶わなかった。“鳥のようなもの”の姿が突然大きく揺らぎ、水をかけた砂糖菓子のようにホロホロと身体が崩れ始めたのだ。

突然の事態に慌てて装置と“鳥の様なもの”を見比べるが、原因がわかるはずもない。戸惑う少女を差し置いて、“鳥のようなもの”の姿と背景の境界線は徐々に曖昧になり、やがて完全に同化する。

僅かな銀光さえも吹きこんできた強風に攫われ、後にはいつもと変わらない夏空と裏庭だけが残された。

縁側にぽつりと座る少女はしばらく黙って空を見た後、細く長い息を吐いた。

無意識のうちに緊張していたのか、力が抜けた途端に少女の全身をだるさが覆う。靄がかかったようにぼんやりとした頭は、夢から目覚めた時の様な感覚に似ている。

手を見ると、小さく震えていた。

この震えは嬉しさからではなく、未知の存在への恐怖からでもない。心を占めるのは、狂おしいほどの懐かしさ。

繊細なガラス細工に指先で触れる時の様な、胸の奥底から沸き上がる静かな高揚だった。

緋色に染まりだした空に先程の光景を描き、少女は魂が抜けたように座り込む。どこか遠くで、蝉が思い出したように鳴き始めていた。





今から7年も前の記憶。

以後、少女はあの鳥を見ていない。